歩いて、読む。

日々の雑感。ときどき、ちょっと文学。

小説の授業の価値を問う

早々に進学先の決まったある生徒が、「何か小説を読みたいが、おすすめの作品は?」と尋ねてきた。どうして小説を読みたくなったのかと問うと、「人の心が分かるようになりたいから」とのこと。そんなに簡単ではない、と諭そうとしてやめた。

相談した結果、芥川龍之介の『蜜柑』を読むことにした。いろいろ手ほどきしてほしいということで、週に2回、各1時間一緒に読むことにした。

溌剌としたスポーツ少年である生徒には、主人公の「私」の「倦怠」や「疲労」は理解に苦しむようであった。が、情景描写なども手がかりにしながら、どうにか最後まで読み進めた。

もちろん、いかに芥川龍之介の小説といえども、短編小説を一編読むだけで人の心が分かるようになるわけはない。ただ、自分のまだ知らない人生の一側面に触れたことは確かである。

ここで確認したいことは、生徒は小説という文学作品にしかない価値を認めている、ということである。小説なぞは読みたくなれば自分で読むべき作品を探して読むから、学校で読む必要はないと主張する人もいる。しかし、人間の普遍的な問題に目を向けさせるために「読むべき」作品があり、それは学校の授業で読む価値があるものではなかろうか。

新学習指導要領では、高等学校「国語」の授業において文学作品を読む時間が激減するのではないかと危惧される。法令や裁判の記録を読んだり、電子メールを読み書きしたりすることは、「国語」科の授業でなければならないのか。そもそも言語活動はどの教科でも行わなければならないはずではないのか。現場の教員は自らの専門性をかけて議論する必要があるのではないか。