歩いて、読む。

日々の雑感。ときどき、ちょっと文学。

改めて自分の仕事の意義を考える

 中学校、高等学校の国語科教科書に採録される古典文学作品には限りがあります。また、採録されたとしても作品のごく一部に過ぎません。例えば、『平家物語』については、後半部分がほとんどで、清盛存命中の部分はまず出てきません。俊寛僧都が鬼界ヶ島に流された場面などは、極限状態におかれた人間の姿、肉親の情愛など、読みどころが満載だと思います。けれども教科書で「鹿ヶ谷の陰謀」のあたりを見たことはありません。

 鴨長明の『発心集』も教科書で見たことはありません。仏教説話集であり、授業の教材には馴染まないと判断されているのかも知れません。私自身は大学生の時、レポートの課題として提示された中世文学作品の一つであったことがきっかけで、読む機会を得ました。序文は名文です。説話の数々は序文のとおり、人間の心に焦点があてられて記されます。読後は、長明自身が自分の心と向き合い、うまくコントロールしていかなければならない境遇であったのではと、長明に親しみを覚えたものです。それと同時に、それは自分自身の課題であることをはっきりと自覚させられた作品でもあります。

 授業で教科書に載っていない『蜻蛉日記』を一部読んだところ、すっかりはまってしまい、大学入試の勉強と並行して『蜻蛉日記』を読み続けた生徒もいます。女性の心理を読むのが面白くてしようがないのだと言っていました。

 古典文学の意義を認めている人には、自分自身や人間について追究しようとする姿勢を感じます。よりよく生きようとする誠実な姿勢です。私自身もそのような人間でありたいと思います。また、誠実に生きようとしている若者たちに、古典はその期待に応えてくれるものであるということを伝えていくことも私の大切な務めだと感じています。